「私は一体何をしたいんだろう...」
焦りを抱えながら思い悩んだ日々
奇跡の始まりは日本がバブル全盛の時代。当時の顔だった今井克史社長は、岐阜市内の某カー用品ショップでタイヤ販売のアルバイトをしていた。誠実に一生懸命働いていたが、バブル全盛期の高級路線で、必要以上に高価なタイヤを売り捌く販売手法に大きな違和感を感じていた。思い悩み、精神を病んでしまった今井社長は、妻子を岐阜市内に残し、故郷・下呂市に単身帰郷。一人で鮎釣りをする日々を送る。「私は一体何をしたいのだろう。何もできない私は価値のない人間だ...」。何をなせばよいという衝動と何もできないという焦りを抱えながら釣りを続けることしかできなかった。
責任を抱えなくていい。
その一言に生きる気力がみなぎった
ある日のこと、釣りをしていた今井社長に、通りかかった近所のおばちゃんが話しかけた。「克坊、あんた責任を抱えすぎてきっとなる。抱え込まんとやりたいことやっておればいいがね」。それを聞いた瞬間、今井社長は体内の血液が逆流し、滞っていたものが噴出するのを感じた。憑き物が落ちたように、今井社長の中に生きる気力がみなぎった。「そうだ、タイヤショップをやろう!」。すぐさま岐阜市へ戻り、まずは資金を稼ぐため某建築会社でアルバイトをした。いざ資金がたまり、タイヤショップをオープンさせる良い土地が見つかったら、建築をお願いしようという目論見もあってのことだ。本来の今井社長の素質を発揮し、汗水流して一生懸命働き、1989(平成元)年7月1日、岐阜市江添に敷地155坪、建坪30坪の小さなタイヤショップをオープンすることになった。
タイヤショップオープン直前に危機!?
それでも感謝の気持ちを忘れない
しかし、とてつもない試練がやってくる。タイヤショップの建築会社がオープン直前の6月30日に不渡りを出してしまったのだ。建築に携わった下請け会社が「金を払え!」と次々に今井社長を訪れた。「なぜそこまで言われないかんの?」と不服に思った今井社長は、近所のおばちゃんに愚痴をこぼすと「克宏さん、その人たちにこそ感謝しなさい」とピシャと戒められた(なぜかおばちゃんに救われる今井社長であった)。そうだ、タイヤショップの施主は建築会社で、毎月家賃を払って借りることになっていて、借金を請け負わずにすんだし、不渡りが数ヶ月でも早かったら、タイヤショップは完成しなかったかもしれない。不幸中の幸いだ。心の中のモヤモヤや不満が一気にクリアになり、感謝の気持ちが湧き出た。それ以来、今井社長の心にいつも感謝を忘れない精神が宿った。
在庫と借金を抱え崖っぷち。
汚れた4本のタイヤがお客様を呼んだ
なんと無事に1店舗目のタイヤショップ「ラ・タイヤーズ イマージン」をオープンさせたものの、タイヤが売れず、在庫を抱えたまま約180万円の借金を早々に作ってしまう。なんとか仕入れ業者に現金で引き上げてもらい、店にはタイヤが4本売れた時に取り替えた、汚れたタイヤが4本だけが残った。どうしたものか...。枯れ木も山の賑わいと、汚れた4本のタイヤをキレイに洗って並べておいた。すると「このタイヤ、いくらするの?」と声をかけてくる人がやってきた。「工賃も合わせて1,500円くらい」と答えると、安いなといって買っていく。買って行ったお客様は当時「ハチロク」「シルビア」などのスポーツカーに乗っているいわゆる「走り屋」。峠でドリフト走行でもしたらタイヤはすぐにダメになる。そんな走り屋仲間の間で「安くタイヤが買える店がある」と口コミが広がり、タイヤがだんだん売れるようになった。「フロントタイヤは新品で、リアタイヤは滑らせてすぐ削れるから中古で」などの要望にも答える。またお客様は昼間仕事している人が多かったので、夜10時まで営業した。中古タイヤが売れることをお客様が教えてくれたのだ。
スキー板のメンテナンス・
チューンナップを請け負うことに
こうして徐々にタイヤが売れるようになったころ、近隣にあるスポーツ用品のヒマラヤ様の本社の方から「タイヤを磨くより、儲かる仕事があるけどやらないか」と今井社長に声がかかる。それはスキー板のメンテナンス・チューンナップの下請け仕事だった。今井社長はスキー道具の知識などない。こんな小さい店ではチューンナップの機械を置くスペースがない。そもそも誰がやるのか…。しかしながらいただける仕事はありがたくいただきますという、向こう見ずな感謝精神で「やります!」と即答。ほとんどノリだった。幸いなことに、近隣のマグダのディーラーでスキーに詳しい白鳥出身のスタッフが担ってくれることになり、場所も不動産会社に尋ねると、近隣の家具屋が倉庫をちょうど返還するとのことで、そこをタイミングよく借りることができた。こうして高い外国製の機械をリースで借り、スキー板のメンテナンス・チューンナップ事業がスタートした。倉庫に空きがあったので、開いたスペースをタイヤの在庫置き場兼売り場とし、夜中まで開けていると人が集まり、さらにタイヤが売れるようになった。
2号店オープン。
そしてコーティングとの出会い
そんなころ、高山市でカー用品店を経営する知り合いから「カー用品が売れなくなってきて、カーコーティングを横浜で習ってきたから教えてやるよ」と電話があった。キーパーコーティングと出会う前の、研磨中心のコーティングである。1施工15,000円、20日でいたら30万円。今井社長は自分の1ヶ月分の給料と家賃くらいにはなるだろうと見様見真似で習得し、知り合いのタイヤの仕入れ業者にお願いして、施工をさせてもらっていた。
タイヤの売上も安定してきた2003(平成15)年、2号店「タイヤ専門店イマージン」をオープンさせる。2階建ての大きな店舗である。しかし、タイヤ販売におけるノウハウは全く構築されていなままであったため、冬季のタイヤ交換の繁忙期が終わると一気に閑古鳥が鳴き始めた。閑古鳥が鳴く店にはお客様も入ってこない。スタッフも暇すぎて暇疲れをしてしまった。ここで運命の出会いが今井社長を待ち受けていた。たまたま当時、手洗い洗車の専門店「快洗隊(かいせんたい)」(現・キーパーラボ)を運営するアイ・タック技研株式会社(現・KeePer技研株式会社)が「洗車スクール」のオープン研修をしていることを知り、スゴウ店の店長、他スタッフに研修を受けてもらい、複数の「快洗隊」にも修行に行き、キーパー公式の認定資格を取得。1号店、2号店でタイヤ販売の傍、テント下で極上手洗い洗車をはじめた。すると徐々に店に活気が戻り、お客様が「何をやっているのだろう」と集まってくれるようになった。
イマージン初の洗車&コーティング専門店
「キーパープロショップ岐阜店」オープン
数年すると洗車の他に、「ピュアキーパー」「クリスタルキーパー」「ダイヤモンドキーパー」とカーコーティングが次々と販売された。研磨を極力せず、塗装を守る二重構造をベースとした、塗装の身代わりになって傷んだコーティング被膜を入れ替えるという犠牲被膜という斬新な発想。そしてきちんとしたマニュアルがあり、システム化された技術に今井社長は共感を覚えた。モノを環境を大切にするこれからの時代に、洗車とコーティングは盛り上がっていくのではないか。キーパーにビジネスの可能性を見た今井社長は、キーパーのノウハウを学ぶうちに、タイヤ販売の片手間でなく、キーパーの専門店として独立させるべきだと考えた。今井社長はタイヤショップ「ラ・タイヤーズ イマージン」に、専門店「キーパープロショップ岐阜店」を独立店舗としてオープンさせることを決意した。
アイ・タック技研株式会社様の谷社長(現・KeePer技研株式会社様の谷会長)に相談すると、包み隠すことなくすべての経営・運営ノウハウを教えてくれた。店舗に合わせた図面の提案や、先に専門店として成功をしていた浜松市にある遠鉄石油様の「キーパープロショップ森田店」様にも見学をさせていただいた。ちょうどイマージン岐阜店の前の田んぼが宅地化となり、借りることができたため、約5,000万円の借金をして2011年7月1日、「キーパープロショップ岐阜店」がいよいよオープンとなった。
地鎮祭の様子
「キーパープロショップ岐阜店」建設現場の様子
「キーパープロショップ岐阜店」オープン初日
タイヤ販売は基礎石、キーパーは柱。
ハイブリッド運営で黒字展開に
タイヤ販売とキーパープロショップのハイブリッド運営がここからスタートした。当時、タイヤ販売スタッフは今井社長と合わせて3名、キーパーコーティングスタッフは1名(?)であった。キーパーとタイヤは非常に相性が良かった。
キーパーは「ハレ」の仕事だ。かっこよく施工をして、車が見るからにツヤツヤになり、お客様が喜ぶことでスタッフも嬉しい。一方、タイヤは「ケ」の仕事である。目立たぬが地道にお客様と対話をして、信頼を深め、基礎石となり、キーパーコーティングという柱を支える。2、3年からの必ず黒字展開となるというビジネスモデルを確信し、2014年3月3日、友人から150坪の土地を借り、さらに5,000万円の借金をし、2店舗目の洗車&コーティング専門店「キーパープロショップせき店」をオープンさせる。岐阜店からせき店も数年はひと月の売上5、60万円と赤字が続いた。しかし地元に根付いたタイヤ販売の安定的な売上で補い、また常連客への地道な声かけにより、コロナ禍の2020年ごろから客単価が増え、軌道に乗ってきた。現在では増収増益、黒字展開となっている。